「日本の芝居を変えた男」といわれた劇作家・つかこうへいは、筑豊は嘉麻市の出身。2010年に亡くなり、2016年7月10日の7回忌に、同窓生やつかファンが集い「つかこうへいをしのぶ会」を開催。参加者から、今後も続けてほしいとの声があり、筑ゼミに「つかこうへいと筑豊研究会」を2016年10月、会員3人で開設。
「つかこうへいと筑豊研究会」は、つかこうへいの功績を筑豊の人々に知らしっていただく活動をとおして、つか作品の
小説、映画、演劇など紹介し、作品に触れる機会を作っていきたいと思っています。
また、炭鉱産業で日本の一時代を支えた筑豊で少年時代を過ごしたつかこうへいの作品の多くには、筑豊という環
境が反映されている作品が多々あります。作品だけでなく、人間的にも、つかさんは沢山の俳優や脚本家を育て、日
本の演劇界に大きな足跡を遺していることは周知の事実で、いまだにつか作品を大切に公演する劇団もあります。
こうしたつかこうへい氏の活躍を、筑豊の子ども達に伝えることは、私達つかこうへいの活躍を知る者の使命だという思いで、「つかこうへいと筑豊研究会」は活動していきます。
2月19日(日) 13時30分~ 場所:善照寺(嘉麻市上西郷590) 参加者 25名
第一回定例会は、つかこうへいの追悼番組のDVDを観た後、参加者が思い思いにつか氏との関わりやエピソードを披露。つか芝居に影響を受けて「今は高校で演劇部の顧問」をしているという人や、40年前に東京の小劇団で活動していてつかさんから「役者では食っていけないぞ」と言われたと懐かしそうに語る人、また天神の交差点でつかさんとばったり出会い、言葉を交わしたと嬉しそうに語る人など等の話からも、つかさんの人柄が伝わってくる思いがした。
4月16日(日) 13時30分~ 場所:善照寺 参加者 16名
2回目は、山田高校で英語教師をされていた永吉博義先生にお越しいただき、つかさんの高校時代の思い出話を語って頂きました。
長年、高校教師として沢山の生徒に接してこらた永吉先生のつかさんの思い出は、当時、先生たちさえも読んだこともないような「カントやチェホフといった西洋の小説や哲学といった本を読破した」と、つか少年が豪語していたのを覚えておられ、「今にして思えば、本当だったんだと思えた」と語られた。
また、新聞部の部長をしていたつかさんは、当時、ベトナム戦争が大きな社会問題となっていた時で、文化祭で、「ベトナム戦争の写真展」を学校の許可を取らずに開催したことに驚かされるとともに、学校で問題にならないかと、はらはらさせられたことなどを語られた。
その「ベトナム戦争」の写真は、つかさんと親しかった同級生で現飯塚市の梶原義光副市長に後日、つかさんとの思い出を聞きに行った折に、高校2年生の時、修学旅行で東京に行き、つかさんに誘われて2~3人の同級生と共に、宿泊の旅館を無断で抜け出して、朝日新聞本社に直談判をして写真を借りたのだったという裏話を聞き、つか氏の行動力と積極性は、その当時から抜きんでていたことを知る思いがした。
また、お父さんは医者や弁護士になることを期待されていたつかさんは受験で悩んでおり、永吉先生たち、2~3人の教授で相談にのったことも明かされた。
筑豊で暮らした少年つかこうへいは、東京で1年浪人(この時、塾の講師をしていたらしい)後、慶応義塾大学フランス文学部哲学科に入学。この当時、塾に通うのも珍しい時代に、しかも東京で下宿して塾に通ったという事でも、つか家の裕福さを物語る。この時も話題になったが、大隈の実家(今は他の人が住んでいた)は、母屋の横に立派な洋館建てがあり、その2階は子どもの勉強部屋で、近所でも評判だったようだ。
*後日、つかさんの実家のあった嘉麻市牛隈にいくと、孫と犬と一緒に散歩中のお年寄りがつか家の洋館が建っていた場所を教えてくれた。その同じ場所に新しく建物が建っていたが、ぐるりと囲まれた塀は日本の塀とは違い、頑丈な当時の塀のまま残っている。
第2回定例会。つかこうへいを語る永吉先生(左手をあげてる人)
6月25日(日) 13時30分~ 場所:桂川町王塚古墳館 参加者 9名
この日は、会場の嘉麻市の善照寺が使用できず、桂川町の国の特別史跡に指定されている王塚古墳館で、定例会を開催。生憎の雨がシトシト降る日で、バイクで小倉から駆けつけてきた20代の青年が飛び入りの参加があった。 つかこうへいの作品(小説、映画、劇など、何でも良いので)について思い思いに感想をかたってもらった。
7月19日(日) 13時30分~ 場所;善照寺 参加者 14名
「つかこうへいと筑豊研究会」の定例会として、7月10日が命日で、今年は8回忌にあたることから、会では命日前日の7月9日(日曜日)に「つかこうへいをしのぶ会」を開催。
朝倉市、東峰村を襲った九州北部豪雨で開催が危ぶまれたが、雨の影響もなく、つかこうへいのファンを中心に15人が集まり、13時から善照寺本堂で法要を、その後、集会所で交流会を行った。
交流会では、つかさんの舞台公演を多数手掛けられたピクニックの武藤辰喜さん、つかさんの劇団取材をされ、つかさんと交流があった朝日新聞社の記者・秦忠弘さんを中心に思い出を語っていただいた。また、つかさんの山田高校(平成19年に廃校)時代の英語教師で生徒指導教諭だった永吉博義さんが高校時代のエピソードを語られた。
武藤さんとつかさんの出会いは、つかさんが41歳で演劇活動を復活された1989年に「今日子」(主演・岸田今日子)を見たことがきっかけ。その時に上演された「幕末純情伝」(出演・平栗あつみ、西岡徳間)の予告編に衝撃を受けたそうで、「芝居の概念を吹っ飛ばされ、強烈であった。頭の良い天才肌の演出家であるという印象を持った」と語られた。
秦さんとつかさんの出会いは、秦さんが高校生の時だったという。つかさんが34歳でつかこうへい劇団を解散する1982年の全盛期の「つか芝居にギリギリ間に合い、東京・紀伊國屋ホールでの「熱海殺人事件」(出演・風間杜夫、平田満、加藤健一、岡本麗)、そして解散公演「蒲田行進曲」(出演・風間杜夫、平田満、根岸季衣)に立ち会うことが出来た一人」だと語られた。そして新聞記者として10年が経った時に、つかさんが東京都北区とともに立ち上げた北区つかこうへい劇団を取材されていた。「つかさんの芝居に、ガツンとショックを受け、魂をゆさぶられるような芝居だった」とその時の印象を語られた。
またつかさんが亡くなられた時は奇しくも秦さんは福岡に転勤していた。2010年、つかさんが病床で演出した黒木メイサ主演の話題作「飛龍伝2010・ラストプリンセス」は紀伊国屋での東京公演を皮切りに、3月広島、京都、愛知そして最後が福岡公演で8,9日と知った秦さんは、アクロス福岡で観劇したという。
7月つかさんが亡くなったと知った秦さんは、真っ先に筑豊を取材。朝日新聞で「つかこうへいと九州」という記事で嘉麻市の同級生たちの取材をはじめ、大学時代につか芝居を見て影響を受けた若ものたちが劇団を設立し、現在も演劇活動をしている地方の劇団を取材して、「つかこうへいの九州 原点と遺産(3回連載)」で、つかこうへいの死を悼んだ。
「つかこうへいとは何だったのか?」をテーマにこれからも取材を続けたいと思っていると語られた。
H29年7月の8回忌「つかこうへいをしのぶ会」の参加者
(写真前列左から)秦忠弘さん、武藤辰喜さん、永吉博義さん
10月15日(日) 13時30分~ 場所:善照寺 参加者 9名
つかこうへい氏の追悼番組のDVD「日本の芝居を変えた男」を鑑賞後、「つかこうへいの作品について語ろう」というテーマで、つか作品について語り合う。共同通信社の記者の田村晃一さんが初めて参加される。
来年4月は、「つかこうへい生誕70周年」を迎える。「つかこうへいと筑豊研究会」としての取り組みを主に語り合う。
12月17日(日) 13時30分~ 場所:善照寺 参加者 8名
筑豊地区の図書館に、今年7月の8回忌の折に「つかこうへいの本の展示」をお願いして回ったところ、全ての図書館が、好意的に取り組んで頂いたことから、平成30年4月の「つかこうへい70周年生誕祭」の折も、つかこうへいの本やDVDなどの展示をお願いしていくことを取り組むことを確認し合う。
10月に田川市立美術館から、来年4月に、つかこうへいと同じ山田高校の先輩画家の展示会があり、その展示室に一部屋空きがあるので、「つかこうへい展」をしないかとの話があり、会員と田川美術館に話を聞きに行く。その報告をする。
また、つかさんと関係のあったピクニックや元大分市つかこうへい劇団などに展示物の交渉をし、展示物の協力を確認。さらに高校時代、新聞部部長をして当時つかが担当したエッセイ「反逆児」など、学生時代の作品や幼少時の写真等を収集ことなどを確認。
*その後、田川市立美術館と2~3回交渉を重ねる中で、日程や条件が二転三転するなどしたこともあり、今回はお断りすることにした。
また、イベントを開催する場所として、出身地・嘉麻市に拘る意見も出ていたが、福岡市など人が集まりやすい場所がいいのではという意見も多く、今後、場所なども検討して、「つかこうへい生誕70周年」の取組みをしていく。
2018年2月25日(日) 13時30分~ 場所:善照寺 参加者 13名
元大分市つかこうへい劇団の設立につかこうへい氏とともに携われた衛藤延洋さんに、大分つかこうへい劇団のいきさつや、取組みについてお話をしていただきました。 衛藤さんは、元大分市役所に勤務する、行政マンでした。
つか氏が福岡で「銀ちゃんが逝く~蒲田行進曲(完結篇)」を公演した折、衛藤さんは当時の大分市長の木下敬之助氏の要請を受けて、福岡につかさんを訪ねていた。
福岡市から北区つかこうへい劇団が1か月間の興行要請を受けた際、つかさんは福岡市からの補助金が予測していた10分の1であることを知らされて激怒し、落胆していた。
隣の大分県はその当時、大分一村一品運動で各市町村が特産品を育て地域活性化に積極的に取り組んでいて全国から注目されていた。また大分市では1994年から文化振興のため演劇公演を積極的に取り組んでいた。それを知ったつか氏が、大分で公演ができないかと大分市に持ちかけたのだというのである。
当時,衛藤さんは文化振興課に勤務していて、つかさんとの連絡係りをしているうちに「いっそ大分に劇団を作ってはどうかと」と提案すると、とんとん拍子で話が進み、1995年に大分市の支援を受けて「大分市つかこうへい劇団」を創設。大きな話題となった。衛藤さんは市職員として勤務しながら劇団の事務局長としてつかさんを支えた。
東京一極文化から脱却し、地方から文化を発信することを考えていたつかさんにとっては、大分という地方に劇団を起ち上げた事は、大きな意義のあることだったと思われる。
旗揚げ公演は、オーディションで395人の中から舞台経験のない3人が選ばれた。全くの素人のメンバー3人の俳優たちで、つか作品の代表作「熱海殺人事件」を、大分版に改定した「売春捜査官」を演じさせた。さらに翌年には「売春捜査官」を引っ提げて、全国ツアーを行い、最終公演は演劇人なら誰もが憧れる紀伊国屋ホール(東京)での公演を実現。
紀伊国屋ホールは、今でも、つかこうへいを慕う俳優たちが演ずるつか作品が上演されている。
裏話だが、福岡公演(1944年11月3~30日)の初演日、山田高校の同級生たちが花束を持ってイムズホールを尋ねた際、つか氏が不在だったことが、いまだに同級生の間で、何処に行ったのかと疑問を抱かせたのだったが、今回、衛藤さんの口から、その日の行動が明かされた。
福岡公演初日の11月3日は、つかこうへい氏は、当時は大分市長の木下敬之助さん、衛藤さん達と一緒に大分市で、「大分市つかこうへい劇団」の創設について打ち合わせをしていたのだときかされて、疑問が晴れる思いがした。
その後、衛藤さんは2000年に「大分市つかこうへい劇団』解散後、市職員を退職。「つかさんと出会わなかったら、ぼくは行政マンとして定年まで勤め上げていたと思う。つかさんとの出会いがあり、いろんな出会いがあり、いろんな生き方がある」ということを知ったと話された。出会いの中で、国会議員の秘書活動から、昨年、大分市の市議会議員に発挑戦し、当選。現在、市議会議員として活躍されている。「つかさんはシャイで優しく、暖かい人だった。もう少し元気でいてほしかった」と語られた。
大分市から駆けつけてつかさんの思い出を語られる衛藤延洋さん
★「つかこうへい生誕70周年」の取組みについて
① 「つかこうへい生誕70周年の歩み・(展示会)」
ピクニックや大分劇団などに協力要請
同級生や嘉麻市の市民からの幼少期の写真や作文などを集める
② 筑豊地域の図書館でつかこうへいの本やDVDなどの展示・貸出
③ つかこうへい作の演劇を筑豊の人たちに観劇してもらい、つかこうへいを身近に感じてもらえいたい
④ その他